因果関係の尊重

■自転車事故

それはビックリされましたね、さらには自転車おばさんの反応にもきっと驚かれたことでしょう。

 私が被害者であった事故にも関わらず因果関係の責任を表す手段として我が社の会長が加害者に謝罪されたお話、山本(仮称)様ご自身もご自身の体験を持って因果関係の本質を模索していただいているようでご購読に重ねて感謝申し上げます。

 しかし今回は山本さんにも、また自転車のおばさんにも大したお怪我が無かったようで、何よりでした。

 また通りがかりの男性には勇気ある行動に感謝しなければなりません。

そこで山本さんを某会社のOLとして、このお話を基に、作り話をすることにしました。

 

 互いがすれ違うのがやっとの道幅が狭い歩道、当然自転車は通行禁止であった。彼女は出版会社の原稿集めにこの道をよく使う。

今日も急ぐ原稿があったので足早に歩いていた彼女。その時である、後方から来た自転車が彼女の背負っているリュックに接触してきたのである。というか正しくは自転車に乗ったおばさんの肩か肘がリュックに接触したようだ。

 驚いた彼女は反射的に体をやや後方に捩じってしまった。決して特別な行動でもない。

ところが、このことでバランスを失ったおばさんが運悪く自転車ごと転倒してしまったのである。

 ちょうど通りが掛かった男性が救急車を呼んでくれましたが、自転車のおばさんは意識が回復しないままで入院する事態となってしまった。

この日、彼女は警察に連行された上、すっかり加害者扱いされ、通りすがりの男性と共に事情徴収されることになった。

「接触された私がどうしてこんな目に・・・」このような彼女の悩みに事態はさらに追い打ちをかけてきた。なんとおばさんの家族にも民事訴訟されることになってしまったのだ。


 そもそも、歩行者専用道路を歩いていた彼女に後方より接触してきたのは自転車のおばさんの方である。本来ならば、運転していたおばさんが彼女に謝罪するのが道理である。

さらに、彼女がもし怪我でもしたとするならば、警察沙汰になり、それこそ道理どころの話ではなくなる。

 当然おばさんは加害者となり道路交通法違反、過失傷害などの罪を負うことになるだろう。

このように、結果によっては法律で言う加害者と被害者が入れ替わってしまうと言う一見、自転車事故のお話のようだが、どんな場合でもお互いの因果関係はなにも変わっていないと言う重要なお話なんです。


作り話のつづきをお話ししますと、 

 意識不明のおばさんのベットの横には今日もまた「私があの歩道を歩いてさえいなければ」「あのとき私が、少しでも後ろの様子を気にしてあげれば」こんなことにはならなかったのに、と、あのときの彼女が自転車おばさんのお見舞いに来ている。

 言い忘れていましたが、当初、警察での事情聴取の段階では過失傷害を立件することが出来ず、おばさん自身の転倒事故の扱いとなりました。また、ご家族の訴訟の裁判も、あの時の通りすがりの男性の証言もあって、既に彼女は無罪放免となっていた。

 ところがお金にならないことを知るや否や、病院への家族の足は遠のいてしまっていた。つまり家族の因果関係は崩れてしまっていたようだ。

だから彼女が頻繁に見舞いにきていると言うわけだ。


 この事故の場合は法的には自身の転倒事故となったが、彼女のリュックに触れた為の転倒であり、その転倒したおばさんが意識不明のまま今、彼女とここにいる。これってなんと表現すれば?

 

 つくり話はこれまでとして、前回の私の交通事故のお話で、私の勤務していた会長が私に伝えたかったのは、法的な加害者・被害者は専門家にお任せするとして、事故が起こればその道徳的責任の殆どは双方に存在する。だからその責任を素直に感じ勇気をもって謝罪できる人になれと言うことだったようです。また、その行為が当たり前に出来るようになった時、少しは徳が備わったと喜びなさい。

  因みにこの年になってようやく会長が私に学ばそうとした「道徳科学」の表面だけが少しは垣間見えるようになりましたが、まだまだ足元には及びません。

もしかして会長ほどになるとするならば、あと二百年はかかるかも。


Willful gunny

過去から現在の出来事を実体験から解説しています。

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