みんな貧乏だった
いまから私が思い返して語れるとしたら、小学生時代からかな? 父親と離婚した当時の母親は、大阪旭区の路地裏長屋の一角に小さな店舗を借り、近隣の子供相手に駄菓子屋を始めました。
7つ年歳上で中学生だった兄は朝夕の新聞配達と、時には夜も週刊誌の訪問販売をしては家計を補っていた。
毎日ではなかったが、母は松屋町や鶴橋で駄菓子や当て物の買い出しに出かけていました。冬場ならまだ夜が明けぬ時刻に時々私も連れて行ってもらったことを覚えています。
「車掌さんに聞かれたら、“幼稚園に通ってる”て言うんやで」市電(路面電車)に乗る前には決まって母が私に言った言葉として印象に残っています。当時の幼稚園児は運賃がいらなかったようである。
真夏になりますと、日中のお手伝いとして何度も近くの問屋さんにアイスクリームの買い出しに行きました。当時、手動ではありましたが“カキ氷”が飛ぶように売れて、商店街の氷屋さんには“カキ氷”用の氷を何度も買いに行ったこともあります。
「ぼく、解けんうちに早よ帰るんやで」と言いながら「食べながら帰り」と一本オマケヲくれるアイスクリーム屋のおじさん。沢山のアイスクリームは段ボールの箱に入れてくれます。
帰り道の公園では幾人かの友達がワンバン野球をしていました。このころの私はワンバン野球が得意だったんです。ここが小学生ですね。
帰りが遅いことで心配した母が迎えに来たときはアイスクリームは段ボールを濡らした水となっていました。当然怒られました。後には母から聞かされ、今でも私の子供に語り継いでいる私のエピソードが有ります。
幼いころの私は、自分が悪いことをしたと自覚した時は怒られる前に親指を差し出したらしい。今でも僅かにその名残が目視できます、お灸の後。
実は氷を買いに行った時も怒られました。「今、忙しいから配達が遅れるんや、お母ちゃんに言うといて」氷屋の大将にそう言われた私は、手ぶらでは帰れないと思ったのか、氷を縄で結んでもらい商店街を引きずって帰ったらしい。
そうなんです、氷は既に縄から抜けようとやせ細っていたとか、とにかく私は母親を泣かせてばかりの足手まといのようでした。
或る冷え切った夜更け前、お店を終いかけの母親に、アカギレ用の“ハンドクリーム”のお使いを頼まれたことがありました。空の瓶を持って行くと、化粧品店のおばちゃんが量り売りで入れてくれるんです。この商店街では毎夜10時になりますと、「よい子は寝る時間ですよ」と “みおつくしの鐘”が街灯に設置されたスピーカーから聞こえてきます。
私はハンドクリームの桃の花を入れてもらって帰り道、ちょうど“みおつくしの鐘”が鳴り始めたんです。
タン~タン~タン~タン~・・・タン~タン~タンタン・・・
この時、私はわけもわからず、急に悲しくなりました。いいえ、誰に叱られたのでもない、だから空しくなったんでしょう。小さな目に涙がいっぱい湧いて来たんです。そして家に着くや否や僕は母のエプロンに顔を隠すように、大声を声を出して一気に鳴きだしてしまったんです。
驚いた母は私の目線まで腰をかがめ尋ねてくれました。「どうしたんや、この子ゆうたら、コケたんか、鳴いておらんと、話さなわからんがな」
私は「胸が苦しいなって、勝手に涙がでてくるんや!」と叫んだ。その瞬間、母は私を抱きしめたかと思うと「ごめんやで、かんにんやで、寂しかったんやな」と一緒になって泣いてくれました。でも決して私は辛いなどと思ったことはなかったんですがね。
5円玉の穴に紙ひもを通します。それはまるで5円玉で作ったネックレスのようである。
ある日、母親はそのネックレスを給食費として登校する私に持たせました。私の担任の先生は母親を呼びつけたそうです。
困っているなら、「役所に相談してあげましょうかと」
帰ってきた母親は怒ったように私に言いました。「明日から学校にいかんでええ」と、それでなくとも母の手伝いで登校日数が少なかったのに。
私と兄は、親父と離婚した母親にくっ付いて、まるで夜逃げのように親父の家を出て来たんです。だから私の心での親父は悪役になっていました。
それから後、私が小学校4年生に上がるころ、駄菓子屋を辞めてた母は、母の母親、つまりはお婆ちゃんのところに私たち兄弟を連れて引っ越しました。母はいちから動力ミシンを習い始め、私も毎日新しい学校に通いました。
これでお手伝いは無くなったと喜んだのもつかの間、学校から帰るや否や「お母ちゃんが縫ったやつ、1ダースづつ揃えていって」それが終わると、衣服の首回りにMとかLとかくっついてます“ネーム”をアイロンで成形するんです。指先はたび重なる火傷でタコができたようにいまだに固くなっています。
「〇〇君、あ・そ・ぼ」野球の約束をしていた友達ら、みんながようやく家路に着いた頃、訪ねてきます。「○○君」と
「うちの子はボール遊びなんかせーへんで」と、一撃、約束を果たせなかった私は信用を失墜し、その後しばらくは、だれも誘ってくれなくなりました。
でも、このような母親のお蔭で、ろくに勉強も出来なかった私に「せめて高等学校は行きなさい、私学でもお金のことは心配せんでええ」と、私は思いのまま進路選択ができました。涙している私を抱きしめてくれたかと思えば、「せめて高等学校は行きなさい」なんて、まるで親父のような心強い言葉でも背中を押してくれました。
そんな凄い母親も平成16年には他界しました。無くなる間際には少し痴呆症も患っていましたが、女房や子供らの介護お蔭もあって、私が母から聞きました最後の言葉は「私は幸せやった、楽しかった」
だから私も・・・みんな貧乏やったけど幸せでした。
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