ほしい商品がみつからない
先日、ある恩師と20年ぶりの再会をいたしました。お食事を頂きながらのお互いの会話は、やはり健康の話題から始まりました。
そんな中、恩師が一言「このごろ欲しい商品が見つからないね」と、とても残念そうにお話しされていたことが印象に残っている。
これまでの私が知り得るその恩師は家電製品、特にAV機器に詳しく、ご愛読の雑誌などで心をくすぐるような新製品が掲載されていると、数日後には必ず手にしていると言った昔からの家電マニアであった。
その恩師が「欲しいものが無い」なんて、いったい家電業界はどうしたんでしょう。
そう言えば、今年(2016年)は日本の大手メーカーが白物家電部門を海外メーカーに譲ったり、経営不振に陥った一流メーカーが外資系企業の傘下となってしまっている。
私が小学生のころは、ご近所でテレビが有るのはごく限られたお金持ちのお家だけだった。
その頃は近所の子供と言うことで許されたのでしょう、厚かましくも私は「おばちゃん、テレビ見せて」と、何度かそのお家に上がり込んだ事が有る。今でも鮮明に覚えているのがお菓子まで頂いたこと、そして白黒の画面ではあったもののそのブラウン管には野球中継が映し出されていた。
だから、我が家に初めてテレビが設置された日には、嬉しさの余り放送終了後のテストパターンの映像まで観ていた。当時は現在のような夜間の番組はなく、各家庭のテレビのブラウン管には円形の形をした映像が映し出され、限りなく丸く見えるように個人が調整をすることになっていた。
その後も、どちらを先に買ったのかは覚えていないが、タライと洗濯板で,母を手伝っていた私にとって、我が家に電気洗濯機が設置された時は、最高の相棒が現れたという感じだった。でも絞り機のローラーを回すのが重くて大変だったことも覚えている。時にはワイシャツのボタンが割れることも有り、母にはよく叱られたものだ。
毎年、暑い夏はやってくる。そんな季節、商店街まで氷を買いに行くのは私の仕事である。
なんと、そんな私を救ってくれたのが電気冷蔵庫サマの出現である。
三角形の形をしたビニール袋のジュースを製氷室に入れて置く、すると翌日にはキャンデーに変身している。「どうやら魔法使いが中に入っているようだ」私は、次は何を冷やそうかと考えるだけで、楽しくて、うれしかったことを思い出す。
戦後生まれの団塊の世代の方ならきっとその当時の思い出は共有できるのではないでしょうか。
このようにご近所のお金持ちのお家でしか見たことのない新製品、でも、かなりの時間差を要したもののそれらが我が家にも新しく設置されていく、その度に私たちユーザーの心が豊かになり、やがては生活様式までを変えてしまった。
それに比べ、今の製品はデザインとキャパを変更しただけでも新製品と呼んでいる。
さらに数年先までなら各新製品の試作品は既に出来上がっているらしい。
つまり本日、発売された新製品A-1の工場ではその製品ではなく、次の後継機種A-2が生産されていると言うことだ。
当然、情報通のユーザー間では「今買わないほうがいいよ、だってA-2が来年発売されるから」
これではこの人はAシリーズの商品は一生買えないことになる。
ユーザーの心をくすぐるようなものは既に出尽くしてしまったのか、そうでもないと私は思う、だって人間ほど欲深い動物はいないと、どこかで耳にしたことが有るからだ。
ならば研究に従事する人の開発能力に原因があるのか、これもそうとは思わない。
IPS細胞の研究は間もなくであろう実用化に全人類がワクワクしている。
iPhone(アイホーン)に至っては発売と同時に完売してしまう。そんな希少製品だからこそ手にしたユーザーは製品に触れるだけでワクワクし、操作するとなると興奮と感動を覚えるのだろう。
ここでもし私が一つお願い出来るならば、企業が経営不振になったのも、市場価格が下がったのも、ユーザーの感動が薄れてしまったのも、見込み違いの過剰生産が大きく原因しているのではないだろうか。しかもその結果、温暖化防止を唱えながらも大事な資源を無駄遣いしてしまっている。
私は身の丈に合った欲求より、少し控えめの腹八分目が丁度良い(ちょうどよい)としている。
つまり謙虚さを忘れてしまった企業は「丁度良い分量」を考えなくなってしまったのだろう。
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